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正眼らいふ

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お盆週間です!

2019-08-08
短大は、夏休みにはいりました。
学生のみなさんは故郷に帰り、教職員が交代勤務に入りました。
短大は、いつもより増して閑かです。
 
もう一つの林の向こうに、正眼寺(正眼僧堂)があるのですが、
あちらも、夏の安居(あんご)が終わり、修行が緩やかになる期間です。
 
正眼寺は、ほとんど檀家を持たない寺ですが、八月も1週間が過ぎ、
近隣のお寺では、お盆行事である山門施餓鬼会、そして棚経が始まりました。
ブログを書いている筆者も、近隣寺院に属しているため、盆のお参り真っ最中の期間です。
 
先日放送された「こころの時代」のなかで、学長老師は、「三昧」(ざんまい)
についてお話されていました。お経や掃除をする体験の中から、三昧について語られていました。
 
お盆のこの期間は、本当にお坊さんたちは、お経三昧になります。
この岐阜近隣のお寺の施餓鬼会は、法要を一軒ないし、数軒ごとに行うので、
半日近く同じお経を、繰り返し読み続けます。
 
お経を読誦していたはずなのに、長時間かつ何度もよんでいるうちに、
お経をよんでいるのか、他のひとのお経を聞いているのか、わからない境地に達してくる。
自分の出している声も聞こえてくる。
 
最初は法要中は、暑いなぁ、まだまだ長いなぁ、とか分別も湧いてくるのですが、
有る時を境に、余計なことを考えなく、ただ、ただ読む。
自他の区別?、言い換えれば主体と客体の分別がなくなるとでもいうのでしょうか、
ただただ、お参りの人がどんどん来られるから、決められたお経を読み続ける。
 
本堂の前には、七如来幡(しちにょらいばた)が掲げられ、お経をよんでいるお坊さんらは、
ほとけさまと一体になる施餓鬼です。
 
もちろん、参拝する人らも、
「南無十方仏 南無十方法、南無十方僧
(なむじほうふー、なむじほうはー、なむじほうせん)」
など、施餓鬼会には、三帰依受戒の意義もあります。
 
どうぞ、みなさま、お盆にはお寺のお施餓鬼にお参りして、
焼香、水向けして、餓鬼に施しをして、善業を積み、ご先祖さまの供養、七如来のご加護があらんことを。

卒業式が行われました。

2019-08-03
 
暑い日が続きます。
 
8月3日は、本学秋学期の卒業式でした。
短大は、年に2回入学式、卒業式を行っております。

いつも思うことですが、短大の二年間というのはあっという間です。
入学式のリハーサルの時は、合掌や叉手当胸(しゃしゅとうきょう)など、
禅の作法はこうするのだ、と手取り足取り説明するものですが、
卒業式では不要です。
作法はもちろん、自然と間合いがとれて相手に合わせる。

朝課など同席し、坐禅、作務、正眼寺の提唱などで自然に作法が
身についているのだな、と思わずにはいられません。

学長老師は、卒業生らの祝辞に
慧玄が這裏(しゃり)に生死なし 柏樹子の話に賊機あり」
の話をして下さいました。
 
「慧玄」とは言うまでも無く、この伊深の地で隠棲した正眼寺の開山禅師のこと。

一見泥棒(賊)は、モノを盗んでゆく悪い行為ですが、その行為に生ずる、
緊張感、したたかさというのは、良い使い方をすれば、社会に有用なのである。
人のモノを盗めば、不善な行為であるが、盗むモノは人々の不安や憂いである
つまり無畏施(むいせ)を、行えば、それば立派な菩薩行である。

短大は二年間といえども、きちんと授業を受け、
作務や坐禅を実践していれば、その実践する智慧は育っているはず。
衆生らの不安な心を盗む、良い泥棒になれということです。
 
この言葉について、開山さんは語録がなく、私たちに伝わっている
数少ない言葉の一つであります。したがって、学長の授業などで、
正眼寺の因縁話になると、何度も同じエピソードを聞いているはずですが、
授業で聞くこととは異なり、今回の「送別の話」で聞くことはまた、
格別の思いが湧いてきます。

学長は、今日は「卒業おめでとう」とは、おっしゃりません。
卒業生らが、これから社会に出て良い「泥棒」の「実践」を
行っているときこそ、この伊深らの地から
「おめでとう」というエールを送り続ける、

と、厳しくも励ましの言葉をいただきました。

学生さんの年齢層はさまざまな大学ですが、
やはり卒業式は良いものです。
 
卒業生の皆様のこれからのご活躍をお祈り致しますsmiley

東京セミナー②

2019-07-30
本日30日は、春学期のテストも終わり、大作務(おおざむ)、大掃除の日です。
東海地方は梅雨明け宣言され酷暑に入ったばかりなのに
はや、夏の終わりを感じさせるヒグラシも鳴き始めています。
 
今回は東京でセミナーを行いました。
それにしても、東京は空を見上げても、ビル、建造物や高速道路など、人工物だらけ。
 
それに対して、正眼寺のある伊深地区は、空も青く周りも緑豊か。
まさに、正眼寺のある地は、自然の中のホトケを感じる絶好の場所です。
 
野生のキツネ、ニホンザルなど日常茶判事、ニホンカモシカの目撃情報もあります。
その中で、自然に触れながら、禅の生活に専念する。なんとも贅沢な場所です。
 
もっとも最古の経典の一つ、ブッダの真理の言葉(ダンマパダ)に、
次のような言葉があります。
 
たとえためになることを数多く語るにしても、それを実行しないならば、
その人は怠っているのである。牛飼いが他人の牛を数えているように、
かれは修行者の部類には入らない。
            ~ダンマパダ19偈(中村元『ブッダ真理の言葉』岩波文庫)
 
東京など都会の地では、多くの仏教書籍が出版され、お寺でも連日法話会などが開かれていて
仏教の見識を得ることは容易でしょう。
しかし、ダンマパダのいうように、禅の仏教というものは実践しなければ意味がない。
 
他人の牛を数えているように、仏教を他人事のように知識だけ蓄えるだけでは、不十分なのです。
 
その実践ができる場所が、この伊深の地であります。
どうぞ、東京セミナーに来た皆さまも、来ることができなかった人も、
またあまり禅に関心がない人も、
夏休みが明けて涼しくなる頃、是非一度はこの地へお越しください。
 
正眼短大には、禅スティという禅生活体験制度もありますので、是非。
やってみなくちゃわからない!

東京セミナー①

2019-07-29
こころを磨く正眼セミナー、先日は東京禅センターのある龍雲寺本堂にて行わせて頂きました。
4月からNHKのこころの時代「禅の智慧を学ぶ」で、学長老師が出演放送しているためか、正眼セミナーは、6月の美濃加茂、7月の名古屋、そして東京と、満員御礼が続いております。

本日のセミナーは、正眼寺でもおなじみの先生、特任教授である横山先生でした。
先生の講義テーマである「唯識」は、難しいものですが、いつもわかりやすく説いてくださいます。
 
唯識と禅の関係について簡単にいってしまえば、唯識は禅のガイドブックのようなものです。
悟りに至るための理論が唯識であり、その理論に基づいて実践することが禅の修行です。
つまり理と行の関係であるといえます。
 
後半は、学長老師の講演。本日は『無門関』十九則、
「平常是道(びょうじょうこれどう)」という公案でした。
 
時折笑いを誘うエピソードなども含め、無門関の一言一言を丁寧に解説してくださいます。
通常、こういう禅の講義を「提唱」といい、雲水さんに向け説く緊張感あるものです。
しかし、正眼寺方丈で行うものとはまた一味違い、ゆったりとした雰囲気で話が聴けるところが、
こうした公開セミナーの魅力です。
 
聞き漏らすまいとメモをとっている人、時折涙ぐんでいる人、
学長老師の顔に穴を開けるくらい真剣に見つめている人など、
お釈迦さまの説法もお弟子さんはこのように聴講していたのでしょうかね。

舎利講

2019-07-10
梅雨明けもちかい季節ですね。
正眼寺では、きれいに蓮の花が咲きました。
 
毎年7月10日、正眼寺では舎利講が行われています。
この時期は七月盆間近で、禅寺では安居が終わる自恣の日に「山門施餓鬼」を行うことが多いのですが、
正眼寺は、檀家をほとんど持たない寺でありますので、この日は、舎利講と施餓鬼をかねて行われます。
今年7月10日は、学長老師の毎週水曜日の授業に重なってしまったため、短大生も
授業の一環として、この舎利講に参加、参列させて頂くことになりました。
 
舎利とは、お釈迦様の遺骨のことであり、舎利講とは(舎利)をおまつりし、その徳を慕う行事です。
お釈迦様は2500年前、インドのクシナガラで涅槃に入られました。
「大般涅槃経」によると、そのクシナガラ付近にいた部族、マッラ族により葬儀が行われ、
迦葉尊者により荼毘にふされます。その後お遺骨は、八部族に分配されます。
その後、アショーカ王によってご遺骨は掘り起こされ、八万四千に分けられたと伝えられています。
つまり仏舎利は、世界に無数に拡散しています。
 
お釈迦さまが、亡くなられて、現世に残されたものは、大きく分けて二つあります。
一つは、お釈迦さまへの記憶や教え、これらが経典です。
そしてもう一つが、亡くなった人間が唯一物理的に残せるもの、それがご遺骨であり、
これら仏舎利、そして仏舎利をおさめる仏塔が、積極的な崇拝の対象となっていきます。
つまり、経典と舎利が、大乗仏教の信仰対象のソフトとハードというわけです。
 
うんちくはともかく、法要のあと、学長老師から講話を頂きました。
正眼寺の舎利講因縁の話では、廃仏毀釈の明治維新後、濃尾地震後など
多くの人らの篤志によって、正眼寺が守られてきたということです。
修行道場を維持するために、のべ30万人の方々の人足があった時期もあるそうです。
 
それらお寺護持のために尽くして下さった先亡の方への感謝の意味もこめて、そして
現在も正眼寺の護持に力を尽くしてさる地域の方々の先祖の供養も含めて、
舎利講のあと施餓鬼会も行われました。
 
お寺を護持してゆく人材を育てるのが、短大の役割でもあります。
いやお寺だけでなく、三宝(仏法僧)をまもってゆく人材を育ててゆく場であります。
今日の舎利講は、改めてお釈迦さまや、先の善朋の方の遺徳を偲び、
改めて仏道のありがたさを知る厳かな行事になりました。
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