ー ちいさくても。見えなくても。 ー
本学の初代学長・梶浦逸外老師が12歳で出家する時、お母様から「底なし釣瓶で水を汲む」話をされました。
このタイトルで本も出版されていますので、ご存じの方もいらっしゃるかもしれません。
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あるところに億万長者がおり、後継ぎがなかったので、養子を募集した。
たくさんの希望者が集まったが、長者の出す試験に誰も受からない。
どんな試験かというと、底のない釣瓶で大樽いっぱいに水を汲み上げるというもの。
そんなことは不可能である。誰もやりたくない。
長者も諦めかけた頃、一人の乞食のような少年が現れた。
自分には親がなく、ともかく、見ぬ親への親孝行をしてみたいと言う。
長者から、これは親孝行になると促され、少年ははひとり、一晩中水を汲み続けた。
朝、樽からはもう水が溢れているのに気づいていない。
それをまさかと見た長者夫婦に背をたたかれ、少年はやっと手を止め、「親孝行ができた」と喜んだのである。
もちろん、この夫婦には素晴らしい後継ぎができた。
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病弱だった逸外老師(になる前の12歳の少年)は、この話を聞き、
「もし25歳で死ぬのなら、他人の倍の仕事、倍の修行、倍の努力をすることだ。それを死ぬまで続けよう」
と悟り、実行され続けたそうです。
老師は85歳で遷化されました。150年分の功徳を積まれたことでしょう。
「塵も積もれば山となる」、「石の上にも三年」、ブログタイトルの原語である「曹源の一滴水」(第1回参照)。
同じような意味の言葉がたくさんあるという事は、それだけ大切という事でしょう。
つまり、小さなことでもコツコツと。
なんの成果も得られないようでも、すべきことは続けてやり抜くこと。
大切だと知ってはいても、はて行動となって誰にでも表れるでしょうか。
さて、冒頭に紹介したのは、道元禅師の言葉です。
世の中にはたくさんの人がいる。
それぞれがひとつずつ良い事をしたら、功徳は海のようになるだろう。山のようになるだろう。
その海にまた、水を注ぐ必要はないだろう?
その山にまだ、小石を積む必要はないだろう?
否。
それでも私は、一滴の水を加えよう。
砂一粒でも加えよう。
私がやることが必要なのだ。それがまことの功徳につながる。
世界中に広がった新型ウイルスは、今も不安を広げています。
「はやく」「だれか」「何とかしてくれ」と、治療法やワクチンの登場を待ち望んでいます。
誰か、ではない。
私が、である。
自分は、今、何ができるか、何をするべきか。
たとえ小さなひと粒でも、不可能を可能に変える、幸せの種を誰もが持っているはずだ。
(もちろん、皆が治療法を研究しようというのではないが。)